JR東海は、南アルプストンネルの掘削のための斜坑を「非常口」と呼んでいます。山梨県側に2本、長野県側には3本、静岡県内には西俣、千石の2本を設けることになっています。列車が停止した際の避難経路となるそうです。

南アルプストンネルには本坑と並行して先進坑が設けられます。ですから、緊急時には先進坑を使って長野・山梨県側に逃げるのが常識的な考え方だと思われます。

しかし静岡県内の斜坑も非常口を呼んでいる以上、ここを用いる事態をも想定しているのでしょう。

とはいえ静岡県側の斜坑は南アルプスの山奥。そんなところに大勢の乗客が着の身着のまま滞在するのは危険でしょうし、数百名の乗客を安全な場所にまで誘導することもまた、困難だと思われます。

過去には600名近い登山者が南アルプス山中に閉じ込められたという事例があります。




昭和57年8月1日午後、台風10号が愛知県中部に上陸。本州を縦断して日本海へ抜けました。この台風、マーシャル諸島東方で発生して西よりに進み、小笠原西方で北向きに進路を変え、そのまま本州中部を縦断するという、若干変わった進路をとりました。
 
台風がまっすぐ北上する場合、その東側ではずっと南よりの湿った風が吹き続け、降水が長時間に及び、雨量が多くなります。
 
この台風の場合、愛知に上陸したため、その東側の山地すなわち南アルプス一帯や関東山地では降水量が多くなり、さらに台風通過後に低気圧が日本海を通過し、3日にかけて大雨が続きました。気象庁のアメダスによると、8月1日から3日にかけての降水量は、静岡県井川で850o、静岡県本川根742o、山梨県八町山で418oなどとなっています。この大雨により、様々な被害が出ているのですが、南アルプスでは多数の登山客がとり残されれしまいました。
 
当時の静岡新聞に従って概略をつづります。
 
8月1日未明、大井川にかかる畑薙大橋が流されました。
 
この橋は、静岡県側から大井川源流部(南アルプス南部)に通ずる唯一の自動車道なのですが、それが失われました。また、山梨県側から大井川源流部にいたる登山道も崩落してしまいました。
 
このため、大井川源流部は孤立し、数百人の登山客がとり残されてしまいました。
 
一帯の山林と山小屋を所有するのは東海フォレストという会社。同社所有の二軒小屋ロッヂから静岡市に救助要請が入ったのは、台風通過後の3日午前。当初は「200人が孤立」という情報だったようです。この時点で各山小屋の食料は1〜3日分であることが判明。市から県に情報が伝えられ、県は自衛隊に救助を要請。また、この日の午後に約50人が自力で下山。
 
天候の安定した4日午前、県と自衛隊のヘリコプター計4機が出動。ラーメンや乾パンなどの食料2日分を空輸するとともに、登山客を搬送。また、静岡市北部の山間部集落が孤立していることも判明し、そちらへも食料空輸を開始。
 
5日には自衛隊のヘリコプターがさらに投入され、計8機による救助活動が行われ、この日のうちに全員を静岡市街地にまで搬送する。結局、合計564人の登山客を救助。
 
なお、一連の救助期間中に、ヘリ発着場となった登山基地への移動中にけが人1名、川に転落2名(うち1人は行方不明)という人的被害も出たそうです。



この場合、夏場であったという条件を忘れてはなりません。夏場だったからこそ、山小屋が営業していて数日分の食料があり、燃料があったのです。南アルプスという場所がら、登山客もそれなりの装備をしていたはずです。だから、ヘリコプターが向かうまで2日間は孤立していても無事だった。夏場ゆえ、台風通過後には天候も安定し、救助活動は迅速に行えました。
 
これが冬や春だったら…山小屋は閉鎖されてますから、トンネルから脱出した数百名分の食料はありません。氷点下10度以下となる世界ですが、乗客は普段着であり、自分で薪でも集めない限り、暖を取ることもできない。
 
さらに3000m峰に囲まれているため、天候の安定しない冬や春先には乱気流が起こり、梅雨時は霧に覆われ、ヘリコプターによる救助も滞ることでしょう。
 
「非常口」から地上に出た途端に「非常事態」となってしまうように思われます。
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